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「
これが再生されているということは誰かがここにきたという事だ。だれかは分からないが少なくとも我々の事を知っているのだろう。ここにたどり着くまでに何重もの場所を潜り抜けただろう。その熱意に感謝する。
ここのあるのはご承知の通り我々の作品だ。我々の作品は常に作品の保存や時間という事を意識していたように思う。
出来た瞬間から古びた写真(時間の洗礼を受けたものはある種の耐性がある)に魅力を感じていた。古い手法を使って、劣化をあらかじめ織り込んだ作品を作ること。時間を経た美を出現させたかったように思う。
そしてこれは若気のいたりではあるが、よく知らないなりに”美術”というものが非常に閉塞している印象を感じていた。その為、自身がトリックスター的に作品に現れて、なおかつ男性ヌード、同性愛的なイメージを作ることで美術関係者以外の耳目を集める、という事を考えていた。
これは意外と上手くいって、色々なメディアにも取り上げられた。当時はネット以前の時代であり、雑誌かTVぐらいしか主だった媒体はなかった。が、雑誌の取材はよく受けたし、TVで特集番組も作ってもらったり、美術系の番組の審査員などもやったりした。
美術業界というものにあまり興味がなかったのかもしれない。それに美術業界からは一部の人を除いて、揶揄されたり無視されたりしていた。
いずれにしても非常に中途半端な活動計画だった。が、自分たちとしては最後の作品は自画像写真で出現したので、最後は作品から消えていく、というものを作って明示的に終わりにしたかった。諸事情があってそれは叶わなかったが。
最後のポートレートは発表する事がなかったため、この空間内に配置することにした。この空間は自分自身でもはっきりとは定義できていない。なんらかの形で自分の意識が具現化したものなのかもしれない。
このポートレート作品は H et H の活動において常に意識していたものがあり、それがヒントになっている。
「ポーの一族」という漫画がある。その主人公はエドガーとアランという14歳の少年たちだ。少年と言っても実際は彼らはパンパイアであり数百年生きている生命体である。
そのエピソードの中でエドガーをモチーフにした11連の絵画が出てくる。エドガーは家の中で様々なポーズをとり、それが描かれている。徐々にエドガーは建物の外に向かっていき、その最後の一枚はエドガーの不在の絵画だ。
ポーの一族のストーリーは大きな時間の流れが一つのテーマになっている。
時間と保存、消滅と誕生
それに準(なぞら)えて、絵画は11枚。
最後の一枚は明るい外で誰もいないものになっている。我々は去ったのだ。
この空間でこれを見ている人は最後の絵画に意識を集中してほしい。
どうすればいいかわからないだろうが、そのうち気づくだろう。
」
ここで語られているようにある時期から H et H は最後の作品を意識していたようだ。
そのモチーフを様々なものに求めていたが(画家が自然物をモチーフにするように、自分達が目にしたものはモチーフとして扱っても良いのではないか、と考えたのは当時のシミュレーショニズムの影響もあったのだろう)、その一端として漫画も当然含まれていた。その中でもポーの一族という漫画には惹かれるものがあったようだ。
その中で表現されていたランプトンの絵画で主人公がモチーフに描かれていた連作の最後の絵(11枚目)が不在の絵画だった。
「2001年宇宙の旅」のデビッド・ボーマン船長も最後は存在が消えて、スターチャイルドに変貌したように最後は不在で何か大きなものに帰っていく事を望んだのかもしれない。
そしてこの注釈自体(注釈という名の言い訳とも言う)が本当にやりたかったことなのかもしれない、言い訳や捏造を含めたものが H et H 自身の作品というか造形物と考えている。

